米山隆一郎書評集

読書記録を楽しむ

第41話 凄惨な戦争と生きていく知恵「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル 池田佳代子訳(みすず書房)

5⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

第二次世界大戦では勝ち目のない戦争により日本軍はほぼ全滅しました。
日本が軍事同盟を結んでいたドイツもまた日本よりも三ヵ月前に敗れましたが、ドイツや近辺の国々ではユダヤ人迫害のためにアウシュヴィッツ強制収容所とその支社にあたる収容施設をいくつか設けられ、非人道的なことが行われ、資料で様々な死者数が挙げられていますが、収容所でのユダヤ人の犠牲者は約500万人程と言われています。犠牲者の正確な数は分かっていません。

その収容所にて行われたことは映画作品などを通して知っている人もいると思いますが、本書「夜と霧」でもどのようなことが行われていたのかが分かります。
本の最初の部分が読みづらく、投げ出してしまう人もいるかもしれませんが、読み進めるとドンドン惹きつけられるし、人生で大切なことが書かれている有益な本でもあります。

本の裏表紙には「言語を絶する感動」や「20世紀を代表する作品」などと紹介され600万部を超えるベストセラーと書いてあり、大量虐殺から生きて帰って来られた被収容者の記録として歴史的に貴重な資料であるし、いつ死ぬかも分からないその究極的に酷い状況下において人がどのようにことを考えるのか、そしてそういう状況でどういうことを考えると良いのか、ということが書かれています。人間は人生で大なり小なり苦しいことがあると思いますが、そんな苦しい状況においてもこの本に書かれたことは参考になると思います。

下記引用、今回は引用部分が多くなりました。数字はページ数。→には引用に対して一言の評を書いてみました。
 
心理学者、強制収容所を体験する
P1 アウシュヴィッツ強制収容所ではなく、その悪名高い支社にまつわるものだ。
  
ナチスによるユダヤ人迫害はアウシュビッツ強制収容所という一つの場所だけで行われたわけではない。

P4 だれもが家で自分の帰りを待っている家族のこと、自分が生きながらえること、収容所内の友情でつながっているだれかれを守ることしか考えなかった。

→家族、自分、友人の大切さ。

P5 収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

→生きのびるために、善いことばかりやっていては生きられない。

P10匿名で公表されたものは価値が劣る、名乗る勇気は認識の価値を高める、と自分に言い聞かせ、名前を出すことにした。わたしは事実のために、名前を消すことを断念した。

→このブログ名も実名にして書いてみようと思い、少し前から実名で書き始めた。

第一段階 収容
P27人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは聞かないでほしい……。

→慣れることは大切だけれども、環境の変化に強い人と弱い人がいることは確か、とはいえそれも慣れで解決だと思う。

P30「(略)だからいいか、もう一度言うぞ、髭を剃れ、立ったり歩いたりするときは、いつもぴしっとしてろ。(略)」

→髭をそります、ふにゃふにゃしません。

第二段階 収容所生活
P61愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

→人は愛する人を必要とするんだ。

P61収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した。天使は永久の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の意味を……。

自己実現が人生でもっとも大切なこと、苦しくても愛する人が心にいることの大切さ。

P62愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きていないのか、まるでわからなかった。(略)愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻をみつめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。
「われを汝の心におきて印のごとくせよ……其は愛は強くして死のごとくなればなり」(「雅歌」第八章第六節) 

→生きていようが死んでいようが、心の中に愛する人が存在していることは本質として深い。

P64被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な体験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。

→芸術や自然に頼るべき人間。

P69収容所で報われたのは芸術だけではなかった。拍手喝采も報われた。

→人間は拍手喝采には励まされる。

P83強制収容所に入れられた人間が集団の中に「消え」ようとするのは、周囲の雰囲気に影響されるからでなく、さまざまな状況で保身を計ろうとするからだ。被収容者はほどなく、意識しなくても五列横隊の真ん中に「消える」ようになるが、「群衆の中に」まぎれこむ、つまり、けっして目立たない、どんなささいなことでも親衛隊員の注意をひかないことは、必死の思いでなされることであって、これこそは収容所で身を守るための要諦だった。

→自分の存在を消して目立たないようにして必死に親衛隊員に気づかないようにする。

P89アウシュビッツにいたころ、わたしはすでにひとつの原則をたてていた。その「妥当性」はすぐに明らかになり、ほとんどの仲間がそれを採用した。つまり、なにかをたずねられたら、おおむねほんとうのことを言う。訊かれないことは黙っている。いくつだ、と訊かれたら、年齢を答える。職業を問われたら、「医師です」と言う。ただし、はっきりと専門を訊いてこなければ、専門医であることは言わないのだ。

→生きる知恵。尋ねられたら、概ね本当のことを言う。訊かれないことは黙っている。

P104肉体的な要因は数あるが、筆頭は空腹と睡眠不足だ。周知のように、ふつうの生活でも、このふたつの要因は感情の消滅やいらいらを引き起こす。

→空腹と睡眠不足は避けるべし。

P105ふだんは感情の消滅といらだちを和らげてくれた市民的な麻薬、つまりニコチンとカフェインが皆無だったのだ。

→ニコチンとカフェインは市民的な麻薬で、私も頼っています。

P105大多数の被収容者は、言うまでもなく、劣等感にさいなまれていた。それぞれが、かつては「なにほどかの者」だったし、すくなくともそう信じていた。ところが今ここでは、文字通りまるで番号でしかないかのように扱われる。

→人が番号に置き換えられるという人間性を失う暴挙。

P109長らく収容所に入れられている人間の典型的な特徴を心理学の観点から記述し、精神病理学の立場で解明しようとするこの試みは、人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、たとえば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、との印象をあたえるかもしれない。

→やはり収容所は酷く恐ろしい環境。

P110人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。

→ふるまいは最後まで自由。

P111人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

→自分自身の決断次第で、どんな存在にでもなれる。

P113おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

→(分かりづらいので、まとめてみました)
 おおかたは生きしのげられないなら、苦しみの意味なし、と多くの人は思っていた。著者がさいなんでいたのは逆で、苦しみに意味があるのかという問いに、苦しみが無意味なら生きしのぐことに意味なし。抜け出せるかに意味があるかどうかという生には、生きるに値なし。要するに苦しみには意味があるということでしょ。

P113ひとりの人間が避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、また人生最後の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている。

→いつでも人生を豊かにできる。

P114人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。

→人間の心は運命よりも強靭です。

P114人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。

→苦しいときこそ、何かを成せる。

P117脆弱な人間とは、内的なよりどころをもたない人間だ。

→強い人は自分の心を拠り所にできる。

P118元被収容者についての報告や体験記はどれも、被収容者の心にもっとも重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければならないのかまるでわからないことだった、としている。被収容者は解放までの期限をまったく知らなかった。

→一番辛いのは解放期限がなかったこと。

P123強制収容所にいる人間に、そこが強制収容所でもあってなお、なんとか未来に、未来の目的にふたたび目を向けさせることに意を用い、精神的に励ますことが有力な手立てとなる。
P123人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。これは人間ならではのことだ。

→未来と未来の目的に目を向けることは絶対に大事。

P125スピノザは『エチカ』のなかでこう言っていなかっただろうか?
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」
(『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)
しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、
精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。

スピノザは苦しさを自覚すると、その苦しみはなくなると言った。未来を信じない人は破綻する。
未来を信じないと、精神も肉体も破綻する。

P128強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。

→とにかく未来の目的は大事。

P128したがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

ニーチェの格言は深い。

P130生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

→生きるとは深い。

P130具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。

→人生を進めていくとき、現象は様々だが、その時々に唯一の答えだけを受け入れて行かざるを得ない。

P131具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

→運命としての苦しみとの対峙。

P134自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

→人生の自分が「なぜ」存在するのかを知れば、あらゆることにも耐えられる。

P135存在、それも模範的存在の直接の影響は、言葉よりも大きいものだ。

→他人の良いところから学ぶ。

P138人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。

→人生には意味がある。

P145この世にはふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れ込んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。

→世の中にはまともな人間とまともではない人間が必ずいる。

第三段階 収容所から解放されて
P155収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、思い出させることが重要だった。ところがどうだ。人によっては、自分を待つ者はもうひとりもいないことを思い知らなければならなかったのだ……。

→待っている人がいるということを思うことが大事だが、待っている人がいない人もいる。

157ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。

キリスト教においてと考えるけれども、神の存在は確かに大きいようだ。そう考えても収容所は壮絶な経験だったのだと考えれる。

帯:心理学者、強制収容所を体験する―飾りのないこの原題から、永遠のロングセラーは生まれた。<人間とは何か>を描いた静かな書を、
新訳・新編集でおくる。

夜と霧 新版

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