米山隆一郎書評集

読書記録を楽しむ

第89話 近現代日本の父は『論語』でできている「現代語訳 論語と算盤」渋沢栄一 守屋淳(ちくま新書)

5⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

2010年初版。60万部超のベストセラー。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」は渋沢栄一の生涯だったことは記憶に新しい。また、今年(2024年)7月から1万円紙幣の顔が福沢諭吉から渋沢栄一になる。

論語と算盤」は、幕末から昭和初期まで生き、約480社もの企業の創立・発展に貢献した、日本近代資本主義の父とも、日本実業界の父とも言われる渋沢栄一の講演の口述をまとめたもの。
渋沢栄一は31歳頃実業で行こうと志を立てる。最初は15歳頃武士になろうとした。遅れたことを教訓にしてほしいという。しかしそれは渋沢以上の渋沢になれたのだといい、遅くはなかったと振り返っている。

西郷隆盛に会っている。岩崎弥太郎とも会い協力することを請われるが、岩崎は富を独占しようとしたが、渋沢は大勢の人が利益を得られるようにして、国を富ませようと考えたため決裂。

この「論語と算盤」の内容は派手ではないが、堅実な考えで、少し前の時代だが決して色褪せることなく現代にも十分通用し勉強になる。こういう内容のことが現実に大切なことなのだと実感した。渋沢を作った『論語』を重要視し、熟読することを勧めているが、私は『論語』を25年位前に1回読んだだけで理解も浅く本当に役立つのか懐疑的だったが、渋沢栄一がこれほど推すとなると、また読みたいと思うようになり手元にとってみた。ただ、この本で論語に比べて算盤の扱い方は弱い。

下記引用少し長いですが、実績のある渋沢の考えであるということから説得力があるので、載せます。

特に自分を磨くという考えに惹かれた。自分を磨いてさらに努力を重ねて行こうと思った。

渋沢は1つ女性関係にだらしなく、子供が30人以上いて80歳過ぎてからの子供もいたようで、精力漲るというかエネルギッシュな感じだが、この女性への原動力が近現代日本を作る原動力になっていたのではないか。

【以下引用】
はじめに
p8もともと「資本主義」や「実業」とは、自分が金持ちになりたいとか、利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいく面がある。しかし、そのエンジンはしばしば暴走し、大きな惨事を引き起こしていく。
(略)
栄一は、この『論語』の教えを、実業の世界に植え込むことによって、そのエンジンである欲望の暴走を事前に防ごうと試みたのだ。

第1章 処世と信条
p14わたしは常々、モノの豊かさとは、大きな欲望を抱いて経済活動を行ってやろうというくらいの気概がなければ、進展していかないものだと考えている。

p15国の富をなす根源は、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富。
和魂漢才
士魂商才

p16士魂を、書物で養うにはいろいろな本があるが、やはり『論語』が根底になる。
商才も『論語

p19家康公が世間とのつきあい方に秀でていたこと、二百年余りの徳川幕府を開かれたことは、そのほとんどが『論語』の教えから来ているのである。

p20「社会で生き抜いていこうとするならば、まず『論語』を熟読しなさい」という
欧米各国の新しい学説は古い。すでに東洋で数千年前に言っていることと同一のもので、言い替え。

p21わたしは、『論語』の教訓に従って商売し、経済活動をしていくことができると思い至った。

p26人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。

p35「人にはどうしようもない逆境」とは、立派な人間が真価を試される機会。
その場合「自己の本文(自分に与えられた社会の中での役割分担)」だと覚悟を決めるのが唯一の策。
p36天命に身をゆだね、腰をすえて来るべき運命を待ちながら、コツコツと挫けず勉強するのがよい。

「人の作った逆境」とにかく自分を反省して悪い点を改めるしかない。自分から「こうしたい、ああしたい」と本気で頑張れば、だいたいはその思いの通りになるものである。

p38「己を知る」身の丈を守ること

p41だいたいにおいて人のわざわいの多くは、得意なときに萌してくる。

p42「名声とは、常に困難でいきづまった日々の苦闘のなかから生まれてくる。失敗とは、得意になっている時期にその原因が生まれる」

世の中で成功者と呼ばれる人々は、必ず、「あの困難をよくやり遂げた」「あの苦痛をよくやり抜いた」というような経験がある。これがつまり、心を引き締めて取り組んだという証拠である。

第2章 立志と学問
p50水戸光圀「小さなことは分別せよ。大きなことには驚くな」

昔の言葉に「千里の道も一歩から」とある。たとえ自分は、「今よりもっと大きなことをする人間だ」と思っていても、その大きなことは微々たるものを集積したもの。どんな場合も、些細なことを軽蔑することなく、勤勉に、忠実に、誠意をこめて完全にやり遂げようとすべきなのだ。

p51一度立てた志を途中で変えるようなことがあっては、大変な不利益を被ることになる。だから、最初に志を立てるときに、もっとも慎重に考えをめぐらす必要がある。その工夫としては、まず自分の頭を冷やし、その後に、自分の長所とするところ、短所とするところを細かく比較考察し、そのもっとも得意とするところに向かって志をやり遂げられる境遇にいるのかを深く考慮することも必要だ。たとえば、身体も強壮、頭脳も明晰なので、学問で一生を送りたいとの志を立てても、そこに経済力が伴わないと、思うようにやり遂げられないような場合もある。だから、
「これなら、どこから見ても一生を貫いてやることができる」
という確かな見込みが立ったところで、初めてその方針を確定するのがよい。それなのに、きちんとした考えを組み立てておかないまま、ちょっとした世間の景気に乗じて、うかうかと志を立てて、駆け出すような者も少なくない。これでは到底、最後までやり遂げられるものではないと思う。
すでに根幹にすえる志が立ったならば、今度はその枝葉となるべき小さな志について、日々工夫することが必要である。どんな人でも、その時々に色々な物事に接して、何かの希望を抱くことがあるだろう。その希望をどうにかして実現したいという観念を抱くのも一種の志を立てることで、わたしのいう「小さな志を立てること」とは、つまりこのことなのだ。

p55志を立てる要は、よくおのれを知り、身のほどを考え、それに応じてふさわしい方針を決定する以外にないのである。誰もがその塩梅を計って進むように心がけるならば、人生の行路において、問題の起こるはずは万に一つもないと信じている。
第3章 常識と習慣
p65,66常識とは、ごく一般的な人情に通じて、世間の考え方を理解し、物事をうまく処理できる能力が、常識に外ならない。

知恵がいかに人生に大切か

p75「志」の方がいかに真面目で、良心的かつ思いやりにあふれていても、その「振舞い」が鈍くさかったり、わがまま勝手であれば、手の施しようがない。

p76「志」が多少曲がっていたとしても、その振舞いが機敏で忠実、人から信用されるものであれば、その人は成功する。

第4章 仁義と富貴
第5章 理想と迷信
第6章 人格と修養
p136「人の一生は、重い荷物を背負って、遠い道のりを歩んでいくようなもの、急いではならない。」

p138決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志を持って進んでいくことを、心より希望する。言葉を換えれば、現代において自分を磨くこととは、現実のなかでの努力と勤勉によって、知恵と道徳を完璧にしていくことなのだ。つまり、精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や見識を磨きあげていくわけだ。

p140『大学』という古典にある、
格物致知―モノの本質を掴んで理解する」
という教えや、王陽明という思想家の説いた、
致良知―心の素の正しさを発揮する」
といった考え方は、すべて自分を磨くことを意味している。

p141自分を磨けば磨くほど、その人は何かを判断するさいに善悪がはっきりわかるようになる、だから、選択肢に迷うことなく、ごく自然に決断できるようになるのである。

p143昨今では、国を豊かにしようとするよりも自分を豊かにする方に重きを置こうとするくらいだ。もちろん、自分が豊かになることが大切なのはいうまでもない。

p144社会に生きる人々の気持ちが利益重視の方向に流れるようになったのは、およそ世間一般から人格を磨くことが失われてしまったからではないだろうか。
もしかりに国民の頼りとするべき道徳の規範が確立し、人々がこれを信じながら社会のなかで自立したとしよう。そうすれば、人格はおのずから磨かれるようになる。その結果、社会のことを考えるのが大きな流れとなり、自分の利益だけを追求すればよしといった風潮はなくなるであろう。
だからわたしは、青年に対してひたすら人格を磨くことを勧めるのだ。

第7章 算盤と権利
p155個人の豊かさとは、すなわち国家の豊かさだ。個人が豊かになりたいと思わないで、どうして国が豊かになっていくだろう。国家を豊かにし、自分も地位や名誉を手に入れたいと思うから、人々は日夜努力するのだ。その結果として貧富の格差が生まれるのなら、それは自然の成り行きであって、人間社会の逃れられない宿命と考え、あきらめるより外にない。

p157そもそも何かを一所懸命やるためには、競うことが必要になってくる。競うからこそ励みも生まれてくる。いわゆる「競争」とは、勉強や進歩の母。

p164わたしは、『論語』を商売するうえでの「バイブル」として、孔子の教えた道以外には一歩も外に出ないように努力してきた。

第8章 実業と士道
p169もし社会で身を立てようと志すなら、どんな職業においても、身分など気にせずに、最後まで自力を貫いて、人としての道から少しも背かないように気持ちを集中させることだ。

第9章 教育と情誼
p192要するに、青年はよい師匠に接して、自分を磨いていかなければならない。昔の学問と今の学問とを比較してみると、昔は心の学問ばかりだった。一方、今は知識を身につけることばかりに力を注いでいる。また、昔は読む書籍がどれも「自分の心を磨くこと」を説いていた。だから、自然とこれを実践するようになったのである。さらに自分を磨いたら、家族をまとめ、国をまとめ、天下を安定させる役割を担うという、人の踏むべき道の意味を教えたものだった。

p193昔の青年は自然と自分を磨いていったし、常に天下国家のことを心配していた。また、かざりけがなく真面目で恥を知り、信用や正義を重んじるという気風が盛んだった。
これに対して、今の教育は知識を身につけることを重視した結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学や大学に進んでますますたくさんの知識を積むようになった。ところが精神を磨くことをなおざりにして、心の学問に力を尽くさないから、品性の面で青年たちに問題が出るようになってしまった。
そもそも現代の青年は、学問を修める目的を間違っている。『論語』にも
「昔の人間は、自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を売るために学問をする」
という嘆きが収録されている。これはそのまま今の時代に当てはまるものだ。今の青年は、ただ学問のための学問をしている。初めから「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、
「自分は何のために学問してきたのだろう」
というような疑問に襲われる青年が少なくない。
「学問をすれば誰でもみな偉い人物になれる」
という一種の迷信のために、自分の境遇や生活の状態も顧みず、分不相応の学問をしてしまう。その結果、後悔するようなことになるのだ。
だからこそ、ごく一般の青年であれば、小学校を卒業したら自分の経済力に応じて、それぞれの専門教育に飛び込み、実際に役立つ技術を習得すべきなのだ。また、高等教育を受ける者でも、中学時代に、
「将来は、どのような専門学科を修めるべきなのか」
という確かな目的を決めておくことが必要になってくる。
底の浅い虚栄心のために、学問を修める方法を間違ってしまうと、その青年自身の身の振り方を誤ってしまうだけでなく、国家の活力衰退を招くもとになってしまうのである。

p202同時に、教育の方針もやや意義を取り違えてしまったところがある。むやみに詰め込む知識教育でよしとしているから、似たりよったりの人材ばかり生まれるようになったのだ。しかし精神を磨くことをなおざりにした結果、人に頭を下げることを学ぶ機会がない、という大きな問題が生じてしまった。つまり、いたずらに気位ばかり高くなってしまったのだ。このようであれば、人材が余ってしまう現象もむしろ当然のことではないだろうか。 いまさら寺子屋時代の教育を例にひいて論ずるわけではないが、人材育成の点は不完全ながらも昔の方がうまくいっていた。今に比較すれば教育の方法などはきわめて簡単なもので、教科書もレベルが高いもので四書五経や八大家文くらいがせいぜいだった。ところがそれによって育成された人材は、けっして似たりよったりではなかったのだ。それはもちろん、教育の方針がまったく異なっていたのだ。学生はおのおの得意とする所に向かって進むので、十人十色の人材に育っていった。

p203、204対して今日、同じ教育を受けた以上、自分にもできると考えるようになる。下積みを避ける。並み以上の人材があり余る。今日のような結果を生む教育はあまり完全ではない。

第10章 成敗と運命
p206みなさんそれぞれが、自分の仕事のなかに大いなる楽しみと喜びを持つようにするべきなのだ。

p219誠実にひたすら努力し、自分の運命を開いていくのがよい。もしそれで失敗したら、「自分の智力が及ばなかったため」とあきらめることだ。逆に成功したなら「知恵がうまく活かせた」と思えばよい。

たとえ失敗してもあくまで勉強を続けていけば、いつかまた、幸運に恵まれるときがくる。

p220成功や失敗といった価値観から抜け出し超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである。

p223十の格言
8言葉で、多くのことをいわない。しかし、いったことは徹底的に努力すべきだ。『大載礼記
9声は、どんなに小さくても聞こえてしまう。行いは、隠していてもやがて明らかになってしまう。『説苑』
10志や意志がかたければ、相手が金持ちや権力者でも屈することはない。道義心が重ければ、相手が王様や貴族でも動ずることはない。『荀子

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)