米山隆一郎書評集

読書記録を楽しむ

第89話 近現代日本の父は『論語』でできている「現代語訳 論語と算盤」渋沢栄一 守屋淳(ちくま新書)

5⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

2010年初版。60万部超のベストセラー。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」は渋沢栄一の生涯だったことは記憶に新しい。また、今年(2024年)7月から1万円紙幣の顔が福沢諭吉から渋沢栄一になる。

論語と算盤」は、幕末から昭和初期まで生き、約480社もの企業の創立・発展に貢献した、日本近代資本主義の父とも、日本実業界の父とも言われる渋沢栄一の講演の口述をまとめたもの。
渋沢栄一は31歳頃実業で行こうと志を立てる。最初は15歳頃武士になろうとした。遅れたことを教訓にしてほしいという。しかしそれは渋沢以上の渋沢になれたのだといい、遅くはなかったと振り返っている。

西郷隆盛に会っている。岩崎弥太郎とも会い協力することを請われるが、岩崎は富を独占しようとしたが、渋沢は大勢の人が利益を得られるようにして、国を富ませようと考えたため決裂。

この「論語と算盤」の内容は派手ではないが、堅実な考えで、少し前の時代だが決して色褪せることなく現代にも十分通用し勉強になる。こういう内容のことが現実に大切なことなのだと実感した。渋沢を作った『論語』を重要視し、熟読することを勧めているが、私は『論語』を25年位前に1回読んだだけで理解も浅く本当に役立つのか懐疑的だったが、渋沢栄一がこれほど推すとなると、また読みたいと思うようになり手元にとってみた。ただ、この本で論語に比べて算盤の扱い方は弱い。

下記引用が長々としてしまって自分ながら量の多さに辟易するが、これが実績のある渋沢の考えであるということから説得力があるので、載せたい。

特に自分を磨くという考えに惹かれた。自分を磨いてさらに努力を重ねて行こうと思った。

渋沢は1つ女性関係にだらしなく、子供が30人以上いて80歳過ぎてからの子供もいたようで、精力漲るというかエネルギッシュな感じだが、この女性への原動力が近現代日本を作る原動力になっていたのではないか。

「以下長々と引用」
はじめに
p8もともと「資本主義」や「実業」とは、自分が金持ちになりたいとか、利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいく面がある。しかし、そのエンジンはしばしば暴走し、大きな惨事を引き起こしていく。
(略)
栄一は、この『論語』の教えを、実業の世界に植え込むことによって、そのエンジンである欲望の暴走を事前に防ごうと試みたのだ。

第1章 処世と信条
p14わたしは常々、モノの豊かさとは、大きな欲望を抱いて経済活動を行ってやろうというくらいの気概がなければ、進展していかないものだと考えている。

p15国の富をなす根源は、社会の基本的な道徳を基盤とした正しい素性の富。
和魂漢才
士魂商才

p16士魂を、書物で養うにはいろいろな本があるが、やはり『論語』が根底になる。
商才も『論語

p19家康公が世間とのつきあい方に秀でていたこと、二百年余りの徳川幕府を開かれたことは、そのほとんどが『論語』の教えから来ているのである。

p20「社会で生き抜いていこうとするならば、まず『論語』を熟読しなさい」という
欧米各国の新しい学説は古い。すでに東洋で数千年前に言っていることと同一のもので、言い替え。

p21わたしは、『論語』の教訓に従って商売し、経済活動をしていくことができると思い至った。

p26人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。

p35「人にはどうしようもない逆境」とは、立派な人間が真価を試される機会。
その場合「自己の本文(自分に与えられた社会の中での役割分担)」だと覚悟を決めるのが唯一の策。
p36天命に身をゆだね、腰をすえて来るべき運命を待ちながら、コツコツと挫けず勉強するのがよい。

「人の作った逆境」とにかく自分を反省して悪い点を改めるしかない。自分から「こうしたい、ああしたい」と本気で頑張れば、だいたいはその思いの通りになるものである。

p38「己を知る」身の丈を守ること

p41だいたいにおいて人のわざわいの多くは、得意なときに萌してくる。

p42「名声とは、常に困難でいきづまった日々の苦闘のなかから生まれてくる。失敗とは、得意になっている時期にその原因が生まれる」

世の中で成功者と呼ばれる人々は、必ず、「あの困難をよくやり遂げた」「あの苦痛をよくやり抜いた」というような経験がある。これがつまり、心を引き締めて取り組んだという証拠である。

第2章 立志と学問
p50水戸光圀「小さなことは分別せよ。大きなことには驚くな」

昔の言葉に「千里の道も一歩から」とある。たとえ自分は、「今よりもっと大きなことをする人間だ」と思っていても、その大きなことは微々たるものを集積したもの。どんな場合も、些細なことを軽蔑することなく、勤勉に、忠実に、誠意をこめて完全にやり遂げようとすべきなのだ。

p51一度立てた志を途中で変えるようなことがあっては、大変な不利益を被ることになる。だから、最初に志を立てるときに、もっとも慎重に考えをめぐらす必要がある。その工夫としては、まず自分の頭を冷やし、その後に、自分の長所とするところ、短所とするところを細かく比較考察し、そのもっとも得意とするところに向かって志をやり遂げられる境遇にいるのかを深く考慮することも必要だ。たとえば、身体も強壮、頭脳も明晰なので、学問で一生を送りたいとの志を立てても、そこに経済力が伴わないと、思うようにやり遂げられないような場合もある。だから、
「これなら、どこから見ても一生を貫いてやることができる」
という確かな見込みが立ったところで、初めてその方針を確定するのがよい。それなのに、きちんとした考えを組み立てておかないまま、ちょっとした世間の景気に乗じて、うかうかと志を立てて、駆け出すような者も少なくない。これでは到底、最後までやり遂げられるものではないと思う。
すでに根幹にすえる志が立ったならば、今度はその枝葉となるべき小さな志について、日々工夫することが必要である。どんな人でも、その時々に色々な物事に接して、何かの希望を抱くことがあるだろう。その希望をどうにかして実現したいという観念を抱くのも一種の志を立てることで、わたしのいう「小さな志を立てること」とは、つまりこのことなのだ。

p55志を立てる要は、よくおのれを知り、身のほどを考え、それに応じてふさわしい方針を決定する以外にないのである。誰もがその塩梅を計って進むように心がけるならば、人生の行路において、問題の起こるはずは万に一つもないと信じている。
第3章 常識と習慣
p65,66常識とは、ごく一般的な人情に通じて、世間の考え方を理解し、物事をうまく処理できる能力が、常識に外ならない。

知恵がいかに人生に大切か

p75「志」の方がいかに真面目で、良心的かつ思いやりにあふれていても、その「振舞い」が鈍くさかったり、わがまま勝手であれば、手の施しようがない。

p76「志」が多少曲がっていたとしても、その振舞いが機敏で忠実、人から信用されるものであれば、その人は成功する。

第4章 仁義と富貴
第5章 理想と迷信
第6章 人格と修養
p136「人の一生は、重い荷物を背負って、遠い道のりを歩んでいくようなもの、急いではならない。」

p138決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志を持って進んでいくことを、心より希望する。言葉を換えれば、現代において自分を磨くこととは、現実のなかでの努力と勤勉によって、知恵と道徳を完璧にしていくことなのだ。つまり、精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や見識を磨きあげていくわけだ。

p140『大学』という古典にある、
格物致知―モノの本質を掴んで理解する」
という教えや、王陽明という思想家の説いた。
致良知―心の素の正しさを発揮する」
といった考え方は、すべて自分を磨くことを意味している。

p141自分を磨けば磨くほど、その人は何かを判断するさいに善悪がはっきりわかるようになる、だから、選択肢に迷うことなく、ごく自然に決断できるようになるのである。

p143昨今では、国を豊かにしようとするよりも自分を豊かにする方に重きを置こうとするくらいだ。もちろん、自分が豊かになることが大切なのはいうまでもない。

p144社会に生きる人々の気持ちが利益重視の方向に流れるようになったのは、およそ世間一般から人格を磨くことが失われてしまったからではないだろうか。
もしかりに国民の頼りとするべき道徳の規範が確立し、人々がこれを信じながら社会のなかで自立したとしよう。そうすれば、人格はおのずから磨かれるようになる。その結果、社会のことを考えるのが大きな流れとなり、自分の利益だけを追求すればよしといった風潮はなくなるであろう。
だからわたしは、青年に対してひたすら人格を磨くことを勧めるのだ。

第7章 算盤と権利
p155個人の豊かさとは、すなわち国家の豊かさだ。個人が豊かになりたいと思わないで、どうして国が豊かになっていくだろう。国家を豊かにし、自分も地位や名誉を手に入れたいと思うから、人々は日夜努力するのだ。その結果として貧富の格差が生まれるのなら、それは自然の成り行きであって、人間社会の逃れられない宿命と考え、あきらめるより外にない。

p157そもそも何かを一所懸命やるためには、競うことが必要になってくる。競うからこそ励みも生まれてくる。いわゆる「競争」とは、勉強や進歩の母。

p164わたしは、『論語』を商売するうえでの「バイブル」として、孔子の教えた道以外には一歩も外に出ないように努力してきた。

第8章 実業と士道
p169もし社会で身を立てようと志すなら、どんな職業においても、身分など気にせずに、最後まで自力を貫いて、人としての道から少しも背かないように気持ちを集中させることだ。

第9章 教育と情誼
p192要するに、青年はよい師匠に接して、自分を磨いていかなければならない。昔の学問と今の学問とを比較してみると、昔は心の学問ばかりだった。一方、今は知識を身につけることばかりに力を注いでいる。また、昔は読む書籍がどれも「自分の心を磨くこと」を説いていた。だから、自然とこれを実践するようになったのである。さらに自分を磨いたら、家族をまとめ、国をまとめ、天下を安定させる役割を担うという、人の踏むべき道の意味を教えたものだった。

p193昔の青年は自然と自分を磨いていったし、常に天下国家のことを心配していた。また、かざりけがなく真面目で恥を知り、信用や正義を重んじるという気風が盛んだった。
これに対して、今の教育は知識を身につけることを重視した結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学や大学に進んでますますたくさんの知識を積むようになった。ところが精神を磨くことをなおざりにして、心の学問に力を尽くさないから、品性の面で青年たちに問題が出るようになってしまった。
そもそも現代の青年は、学問を修める目的を間違っている。『論語』にも
「昔の人間は、自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を売るために学問をする」
という嘆きが収録されている。これはそのまま今の時代に当てはまるものだ。今の青年は、ただ学問のための学問をしている。初めから「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、
「自分は何のために学問してきたのだろう」
というような疑問に襲われる青年が少なくない。
「学問をすれば誰でもみな偉い人物になれる」
という一種の迷信のために、自分の境遇や生活の状態も顧みず、分不相応の学問をしてしまう。その結果、後悔するようなことになるのだ。
だからこそ、ごく一般の青年であれば、小学校を卒業したら自分の経済力に応じて、それぞれの専門教育に飛び込み、実際に役立つ技術を習得すべきなのだ。また、高等教育を受ける者でも、中学時代に、
「将来は、どのような専門学科を修めるべきなのか」
という確かな目的を決めておくことが必要なになってくる。
底の浅い虚栄心のために、学問を修める方法を間違ってしまうと、その青年自身の身の振り方を誤ってしまうだけでなく、国家の活力衰退を招くもとになってしまうのである。

p202同時に、教育の方針もやや意義を取り違えてしまったところがある。むやみに詰め込む知識教育でよしとしているから、似たりよったりの人材ばかり生まれるようになったのだ。しかし精神を磨くことをなおざりにした結果、人に頭を下げることを学ぶ機会がない、という大きな問題が生じてしまった。つまり、いたずらに気位ばかり高くなってしまったのだ。このようであれば、人材が余ってしまう現象もむしろ当然のことではないだろうか。 いまさら寺子屋時代の教育を例にひいて論ずるわけではないが、人材育成の点は不完全ながらも昔の方がうまくいっていた。今に比較すれば教育の方法などはきわめて簡単なもので、教科書もレベルが高いもので四書五経や八大家文くらいがせいぜいだった。ところがそれによって育成された人材は、けっして似たりよったりではなかったのだ。それはもちろん、教育の方針がまったく異なっていたのだ。学生はおのおの得意とする所に向かって進むので、十人十色の人材に育っていった。

p203、204対して今日、同じ教育を受けた以上、自分にもできると考えるようになる。下積みを避ける。並み以上の人材があり余る。今日のような結果を生む教育はあまり完全ではない。

第10章 成敗と運命
p206みなさんそれぞれが、自分の仕事のなかに大いなる楽しみと喜びを持つようにするべきなのだ。

p219誠実にひたすら努力し、自分の運命を開いていくのがよい。もしそれで失敗したら、「自分の智力が及ばなかったため」とあきらめることだ。逆に成功したなら「知恵がうまく活かせた」と思えばよい。

たとえ失敗してもあくまで勉強を続けていけば、いつかまた、幸運に恵まれるときがくる。

p220成功や失敗といった価値観から抜け出し超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである。

p223十の格言
8言葉で、多くのことをいわない。しかし、いったことは徹底的に努力すべきだ。『大載礼記
9声は、どんなに小さくても聞こえてしまう。行いは、隠していてもやがて明らかになってしまう。『説苑』
10志や意志がかたければ、相手が金持ちや権力者でも屈することはない。道義心が重ければ、相手が王様や貴族でも動ずることはない。『荀子

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

 

第88話 深く悩ましき日本の問題達「書いてはいけない」森永卓郎(三五館シンシャ)

5⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

初版2024年

やや長文です。
第1章 ジャニーズ事務所

ジャニーズ事務所創業者・社長の故ジャニー喜多川氏の性加害事件についてで、報道されている通り。明るみに出たのはつい最近であるが、芸能・マスメディア関係者の間ではジャニーズには忖度するという暗黙の了解があり、口を閉ざすことが慣行されていた。芸能界史上とてもインパクトが強い事件。森永卓郎はジャニー氏に女性と同じように魅力的な男を嗅ぎ分ける力があったと分析している。事件が闇の中であったのに、明るみに出た今ジャニー喜多川氏が死去していることがまた更に輪をかけて闇の中にあり、ブラックホールの存在のような事件になってしまったと感じる。

第2章 ザイム真理教

前著『ザイム真理教』と少し視点を変えて述べている。以下引用を多めに述べる。

この30年間、先進国では、日本だけが経済成長をしていない。統計データをきちんと見ている経済学者なら、その最大の原因の1つが緊縮財政であることは、みなわかっている。だから、まともな経済学者は、財政緊縮路線を批判する。
ただ、私には不満があった。それは、なぜ財政緊縮が行われているのかという分析がないことだ。
(略)
私の答えは明確だ。それは財務省が「宗教」を通り越して、「カルト教団」になっているからだ。
(p67)

2020年度末で、国は1661兆円の負債を抱えている。しかし、国は同時に資産も1121兆円持っている。政府がこんなに資産を持っている国は、日本以外にない。
(略)
2020年度の名目GDP(国内総生産)は527兆円なので、GDPと同じ程度の借金ということになり、これは先進国では、ごくふつうの水準だ。
(略)
通貨発行益も含めて考えれば、日本は現在、借金ゼロの状況になっているのだ。
にもかかわらず、財務省は「財政赤字を拡大したら、国債が暴落し、為替が暴落し、ハイパーインフレが国民を襲う」と国民を脅迫する。だが、アベノミクスが図らずも、それが間違っていることを証明してしまった。
新型コロナウィルス感染症の拡大で、(略)税収を上回る赤字を出したにもかかわらず、国債の暴落も、為替の暴落も、ハイパーインフレも、まったく起きなかったのだ。
(p69,70)

そこには、財務省内での人事評価が大きく関わっている。
増税を実現した財務官僚は高く評価され、その後、出世して、天下り先が用意される。
一方、財政出動をした結果、経済が成長して、税収が増えたとしても、財務官僚にはなんのポイントにもならない。だから、財務官僚は増税のことしか考えない。財務省の思考には、経済全体の視点や国民生活のことなど、まったく入っていないのだ。
(p71)

結果として、新聞でもテレビでも、「日本の財政は世界最悪の状況であり、消費税を中心とした増税を続けていかないと、次世代の禍根を残す」という根拠のない神話が繰り広げられていく。メディアがそうであれば、多くの国民が騙されてしまうのも仕方がないことなのだ。
(p73)

財務省は、消費税の引き上げなどの増税策ばかりを示して、経済規模拡大による税収増というビジョンはほとんど出てこない。いったいなぜなのか。
増税を実現した官僚は栄転したり、よりよい天下り先をあてがわれる。(略)一方、経済規模を拡大して税収を増やしても、財務官僚にとってはなんのポイントにもならない。
(p79)

日本のメディアでは、財務省批判は絶対のタブーだ。それは財務省が独裁者だからだ。(p101)

教科書には、「日本は、司法と立法と行政がそれぞれ独立する三権分立」だと書かれている。しかし、エリート中のエリートである財務官僚だけは別だ。彼らは司法の上に立ち、政治家を洗脳することで立法の上にも立っている。その地位は絶対君主に等しい。(p111)

国民は財務省の官僚を選挙で選んだわけではない。国民に選ばれていない人が、国権の最高権力者として君臨するという統治機構は明らかにおかしいのだ。(p114)

私は、ザイム真理教問題を解決するためには、(略)財務官僚の究極の目的である天下りを完全禁止するとともに、彼らの権力の大きな源泉となっている国税庁を完全分離することだ。(p114、115)


財務省という公務員最難関の組織に属するのは、最高権力者の座に就くことである。財務省は国のためというよりも、自身の保身のために行動してしまう。そして彼らの言うことを国民は盲信しているので高い税金を払うことに疑問を感じないという現状が作られてしまった。

第3章 日航123便はなぜ墜落したのか

大抵の日本人は御巣鷹山への墜落だと思っていた日航123便が、実は自衛隊機による撃墜であったという衝撃的な結論で、頑なにボイスレコーダーは公開されていないという事実。
撃墜が事実として第4章で語られることに続く。

御巣鷹山に墜落した航空機事故の真相は、ボイスレコーダーの公開を待たなければならない。

第4章 日本経済墜落の真相

日航123便の墜落からわずか41日後、プラザ合意があり、日本は円高になり、輸出品が売れなくなって、経済不況になる。
さらに、墜落からほぼ1年後、日米半導体協定の締結。目的は2つ、価格設定はアメリカ、もう1つは国際法を無視してまでの、日本市場で外国製品のシェアを5年以内に20%以上にするという合意。
凋落のきっかけとなった。

これらの政策決定の背景には、墜落事件があり、日本政府は日航123便の墜落の責任をボーイング社に押し付けたことになり、顔に泥を塗ったのだから、大きな見返りが必要になる。それだけではなく、日本政府はバレたら、政権が確実に崩壊するほどの大きなウソをついてしまった。だから、「123便のことをバラすぞ」と脅されたら、なんでも言うことを聞かざるをえなくなってしまったのだ。
日米構造協議は交渉なのに全部アメリカの言いなりになんでも受け入れる。対米全面服従
プラザ合意による超円高の後、日本経済は深刻な景気後退に突入。


日航123便の事故をきっかけに日本経済は30年間悪夢を見続けたという見立てで、説得力ある。

あとがき
この30年間、日本経済は転落の一図をたどった。私は原因は2つだと考えている。1つは財務省による財政緊縮政策。財政をどんどん切り詰め、国民の生活を破壊する。前著『ザイム真理教』に詳しく書いた。
そして、もう1つが日航123便の墜落事故に起因する形で日本が主権をどんどん失っていったという事実。国の経済政策をすべてアメリカにまかせてしまえば、経済がまともにうごくはずがない。

発想を変えれば、コックピット・ボイスレコーダー、そしてフライトレコーダーは現物が残されている。原因を国民の前に明らかにする。これだけで日本は主権を回復する独立国家への道を歩むことができるようになるはずだ。


ジャニーズの事件はとても重いが分かりやすい。ザイム真理教については前著と本書とを合わせて、独裁の怖さが伝わる。日航123便墜落事件は初めて真相を知った。墜落事故に隠された新事実によって日本経済も大きく墜落。物事に直面した時何でも疑ってかかる必要があるが、森永卓郎の読みは正しいと思いたい。嘘のような本当のような、それでいて衝撃的な、そして口にすることも憚れることを本に書くのには相当勇気が必要であったであろう。真相を語る才能に恵まれた森永卓郎がすい臓ガンのステージ4であることは寂しく思う。

書いてはいけない

第87話 正義はどこにあるのか「ザイム真理教」森永卓郎(三五館シンシャ)

4⭐️⭐️⭐️⭐️

初版2023年。
森永卓郎は癌で今年の春の桜が見られないかもしれなかったらしい。まだ存命であるので、少しでも長く生きてほしい。

題名のザイム真理教とは、財務省カルト教団オウム真理教とかけている。財務省は旧大蔵省で、日本の官僚組織のトップ集団である。

この本に通底している考え方は、「財政均衡主義」。
税収範囲内で財政支出をしなければならないという理念は、われわれの暮らしになぞらえると、至極当然のことだと理解しやすいからだ。しかし、国全体の財政、特に自国通貨を持つ国の財政にとって、「財政均衡主義」は誤っているどころか、大きな弊害をもたらす政策だ(p4)、というもの。

森永は、「p23(財務省の人間は、)ずっと周りの人から、チヤホヤされて、自分の一言で、思い通りに人が動く経験を重ねていくと、やがて人間は、全知全能の神であると勘違いしてしまう。そこにザイム真理教の源流があるのだ。」と言う。
→人間は傲慢になる性質がある。

財務省は消費税増税にこだわる。
財務省にとって税収が増えることは、収入が増えることに直結している。

財務省にとって、安倍政権ほど素晴らしい政権はないとも言えます。結局、消費税を二度増税し、経済成長で税収も増やしたわけですから。(p117)
→消費税は迷惑な存在であると、庶民はもっと主張してよいはず。

なぜ日本は30年間成長できなかったのか。
日本経済が成長できなくなった最大の理由は「急激な増税社会保険料アップで手取り収入が減ってしまったから」だ。
使えるお金が減れば、消費が落ちる。消費が落ちれば、企業の売上げが減る。そのため企業は人件費を削減せざるを得なくなる……という悪循環が続いたのだ。
ザイム真理教は、国民生活どころか、日本経済まで破壊してしまったのだ。(p135)
→失われた30年ということをよく耳にするが、要するに税によって人々の収入が落ち込みお金の巡りが悪くなって、最終的に日本経済は低迷が続いた。

もっと公平な税制を作ろうと思うのであれば、消費税を廃止し、税制の特例を廃止し、すべての所得を総合課税することが望ましいことは明らかだ。(p166)
カルト教団の多くでは、富裕層やエリート層が、一般信者と異なる待遇を与えられるのはよくある話だ。ザイム真理教でもその構造はまったく同じだ。庶民は教団の集金のターゲットとしてしか扱われない。(同上)
→消費税を廃止し、総合課税を導入する。不平等な世界を変革し、公正な世界を築こう。


消費税を廃止し、税制を改革することが大事。財務省は官僚のトップ機関であることを利用して政治家を操り、国民に重い税負担をかけ結果的に国が30年間低迷することになった。構造的に改善しにくい国の機関運営の現状。
これらのことは、今まで多くの人が分からず、また権力に逆らう構図であるので言い出しにくいことでもあったと思う。しかし、森永卓郎が勇気をもって難しくて見通せない現状を分析し、この本の出版に漕ぎ着けたことは称賛に価する。

ザイム真理教

第86話 歴史小説から人生を学ぶ 「教養としての歴史小説」今村翔吾(ダイヤモンド社)

4⭐️⭐️⭐️⭐️

初版2023年。
歴史小説家による歴史小説を教養として読むことを勧める本。
著者今村翔吾は小学生5年の時に池波正太郎の「真田太平記」を読み始めてから、歴史小説を読むことが好きになり、多くの歴史小説を読み、その経験を生かして歴史小説家になった。この本では時代小説を歴史小説に含め、歴史小説の歴史にあたるものを太平洋戦争までとしている。著者は独自に、歴代の歴史小説家を7世代に分けていて面白い。また、歴史小説の人気を一気に押し上げたのは、「一平二太郎(藤沢周平司馬遼太郎池波正太郎)」と記している。

歴史小説は偉人の成し遂げた業績や行動を小説の主人公に成り切って再体験できるから面白く、大きな業績を残した人、自分の目指すところと同じ様な人、自分が専門とすることと重なる人と言った自分と重ねられる部分がある人物の作品を読むと気分が良いと思う。歴史小説はポジティブなものである。紹介されている本で以前から読みたいと思っていた歴史小説もあるので、時間をみつけて読もうと思う。

歴史小説と言えば個人的な話だと、中学生になった時に周囲の者がやたらと吉川英治を読んでいて自分も読もうということで「三国志」と「宮本武蔵」を読んだ。2作品ともとても面白くて、「三国志」は後で多くの場面で大いに役立ったのでこの時読んでおいて良かったと思うし、「宮本武蔵」は影響を受けすぎて強くならねばと部活動に励むことになった。

宮本武蔵」を読んでいる時、その時親しくしていた者が「自分は(山岡荘八の)『徳川家康』を読んでいる」と言っていたのを思い出し、大人になってから『徳川家康』を古本屋で少しずつ集めた。しかし全く読んでいないので完全なる積読状態で所有している。今村翔吾は『徳川家康』をお薦めの10冊に挙げているので(この本の中の、ビジネスで役立つ歴史小説の5冊にも含まれている)積読解消したい。絶対に得られることが多いはずだ。

立川談志は生前に自分の弟子の入門には必読と言っていたらしい吉川英治「新平家物語」も蒐集したもののこちらも1巻の途中で積読状態。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「胡蝶の夢」は読んだ。「竜馬がゆく」はとても面白い。司馬遼太郎の作品も積読が多いし、読みたいのも多い。

藤沢周平の「蝉しぐれ」も冒頭だけ読んで積読だ。山田洋次監督、真田広之主演の「たそがれ清兵衛」は映画で観た。ちなみに今村翔吾は、この本で「p122 私が美しい日本語で書かれている歴史小説」に挙げたいのは、『溟い海』(藤沢周平著)、『樅ノ木は残った』(山本周五郎著)、『敦煌』(井上靖著)といった作品です。」と書いている。

私の地元が池波正太郎のゆかりの地で、池波正太郎が最初に入学した小学校は私と同じで先輩にあたる。その後池波正太郎は両親が離婚して区内の別の小学校に転校した。学歴は小学校卒業。作品で読んだことがあるのは2007年読了の「男の系譜」のみだが、最近図書館の池波正太郎のコーナーで全集のようなものの冒頭を読んだら、武田信玄が描かれている場面で作品名は確認していないが、その部分だけでも面白かった。

概して歴史小説の大家は遺した本の量が多い感じを受ける。吉川英治の遺した本の量は多いし、司馬遼太郎も多く、池波正太郎も多い。楽しむ余地は沢山あって、時間が足りない。

教養としての歴史小説

第85話 古典を読まないともったいない「古典をどう読むか―日本を学ぶための『名著』12章」秋山虔(笠間書院)

4⭐️⭐️⭐️⭐️

初版2005年。
秋山虔
大正13(1924)年、岡山県生まれ。
昭和22年東京帝国大学国文学科卒、同大学院修了。東京大学名誉教授。日本学士院会員。源氏物語ほか女流日記文学などの注釈や作家論・作品論を手がけて平安朝文学研究に寄与した。平成13年文化功労者受賞。平成27 (2015) 年死去。

〈目次〉
藤岡作太郎『国文学全史 平安朝篇』(明治38年)-平安朝文学研究の古典
芳賀矢一『国民性十論』(明治40年)-美意識から見た日本人
五十嵐力『新国文学史』(明治45年)-印象の実感を記述する古典文学史
内藤湖南『日本文化史研究』(大正13年)-自称「他流試合」の秀抜な史論
高木市之助『日本文学の環境』(昭和13年)-独自の環境「みやこ」論
風巻景次郎『文学の発生』(昭和23年)-日本文芸史構想への模索
島津久基『紫式部の芸術を憶ふ 源氏物語論攷』(昭和24年)-古典遺産への感愛の披瀝
西郷信綱『日本古代文学史 改稿版』(昭和38年)-社会人類学的発想の文学史
益田勝実『火山列島の思想』(昭和43年)-日本的心性の原像の探索
寺田透源氏物語一面』(昭和48年)-自己検証としての作品論
大岡信『あなたに語る日本文学史』(平成7年)-表現者の古典文学論1
竹西寛子『日本の文学論』(平成7年)-表現者の古典文学論2


古い批評は文章が硬いという面があった。
内藤湖南『日本文化史研究』(講談社学術文庫)は非常に読みたいと思った。
表現者の古典文学論の2章、大岡信竹西寛子の章は文章が柔らかくて読みやすい。

古典には苦手意識がある。古典で読了したものがほとんどないため、高校レベルの古典の知識がアップグレード出来ていないが、古典を読みたいと思っている。特に平安時代に書かれた紫式部源氏物語」を原典で読みたい。

本書は、源氏物語研究の泰斗による、古典研究の名著の紹介と批評。主に学者の批評に対する著者の批評だ。様々な古典を読んでいないせいか、文章を読めはするが、あまりピンとこなかったというのが本音。読んでいてよくわからない箇所があるので、ペンディングという感じで古典にあたりたいと思うところが多々あった。

古典を読む気持ちが削がれなければいいとか、古典を嫌いにさせないで欲しいとか思いながら読んだが、意外とそういう所はなく、むしろ面白く古典の世界に入っていきたくなる気持ちにさせてもらえて良かったと思う。

古典をどう読むか、という本の題名で、『源氏』の専門の先生が語るためなのか、『源氏』が凄いためなのか、益々『源氏』はもちろん古典を重要視したいと思った。有名作家による現代語訳も多いということもあるし、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」も紫式部なので、読むいいタイミングだと思う。

古典をどう読むか

第84話 方言の実態に迫る「日本の方言地図」徳川宗賢編(中公新書)

3⭐️⭐️⭐️

初版1979年。
今までずっと東京にいて標準語の環境で生活してきた。テレビやラジオ、音楽や新聞などの活字も標準語。方言の存在は知っているが、たまに触れる程度だったと思う。方言の実態は想像できないので、日本は標準語が使われている地域が広いのではないかという幻想を抱いていた。関西弁や大阪弁というのはお笑い芸人が話すので異色の存在感。

本書は50年近く前のいくつかの日本語を全国的にアンケート調査して、分布の仕方を日本地図に載せて傾向を分析している。1つ1つの単語が地域によって様々な方言となり、標準語が主流というわけでもない。東京で使われている言葉が少数派ということもよくあることがわかった。

この本での画期的な調査と発見は、言葉が伝わって広がる時に波紋の様に広がるため、中心から遠い地域で使われている言葉は古く、中心の地域で使われている言葉は新しいという1つの法則を示したことだと思う。このことは実際には柳田国男が「蝸牛考」という本で発見した法則で、本書で再確認したということになる。この法則の発見と語源を考えることでそれぞれの単語の歴史と配置の理由がわかることもあるが、例外も多くある。日本語の方言が東京も含め多様といえる。

情報化社会になった今、50年前の方言の実態とかなり変わっているのではないかという気がする。テレビやラジオといったマスメディアの発達とインターネットの出現で使われる言葉が変わってしまったのではないだろうか。

個人的な誤使用では、「しあさって」を「ひあさって」と言うと思い込んでいて、最近他人に指摘された。この本でもこの言葉のことが採り上げられていて、今日を1日目と考えると「し」は「四」だから、「しあさって」は4日目に当たるから「しあさって」という説があるというのを知ってかなり合点した。

昔は京都が中心であったから、当時日本各地で人々がどう話していたかということについてはこの本の調査以上に今とは違った様相であったのだろうと想像できる。昔の人がどう話していたのかということを考えるとロマンを感じる。

日本の方言地図 (中公新書 533)

 

第83話 文学と研究「日本文学の論じ方ー体系的研究法ー」鈴木貞美(世界思想社)

5⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

2014年初版。
文学研究する人のために書かれた本で、著者が北京の清華大学で2013年から翌年にかけて講義したものをもとにしたもの。5章から成る。
著者は国際日本文化研究センター総合研究大学院大学名誉教授。専門は文芸批評、日本文芸文化史。

「第1章 論文の書き方」
巻末の「あなたの論文を飛躍的に変える12箇条」とともに調査、考察、論述といった論文を書くことに必要なことをまとめる。

「第2章 今日の「文学」研究」
批評・研究の方法の歴史的変遷の概略を説き、最近の傾向の概略を整理する。作家論・作品論から読者論・テクスト論へ、そして文化研究・メディア論へ、多くの作品と作家を取り上げながら国内外の研究史を概観する。

「第3章 日本文学研究の根本問題」
「そのことは学生のうちから知っておきたかった」という内外の大学院生の声に応え、日本文学研究の根本問題を論じる。研究の前提となる基本概念や分析図式について、「文学」概念の変遷や言文一致運動に関する研究の再検討から、「西欧化=近代化」図式に縛られていることを考える。さらに欧米における文学概念の変遷についての考察。

「第4章 文章研究の方法ー基礎論」
作品と作家、読者の関係の原理を説き、作品および作品群へのさまざまなアプローチの仕方を示す。作品の相対的自立性と、時代相との関係を論じる。

「第5章 作品論から文学史の書き換えへ」
作品と作家を思想、文芸思潮、諸ジャンルの概念、メディア、リテラシー、生活文化などとの相互交渉を関連させて研究を進め、文学史の書き換えにつなげる方法を示す。次に作家の評価史を検討し、最後に表現概念の変遷をつかむ。

著者は碩学である。驚嘆する。文学の知識がないので読み進めるのに最初は苦労したが、徐々に慣れて来た。論文を書く方法を学ぶとういうよりも難解な文学書を読んで学んでいるという有り様。


図書館で借りて1回流し読みして、必要ないかと思って返却したが、やっぱり買って読もうと思い探し回った。インターネットで秋田県の書店に1冊あることが分かり電話した。しかし、送るサービスはしていないと断られた。そこで京都にある出版社に電話をしてみると1冊だけあるとのことなので、購入できた。世界思想社様には感謝します。


何度も読み返して理解を深めたい。貴重な知識の山という感じで、勉強になることが多く楽しい読書経験になった。

日本文学の論じ方―体系的研究法